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11:00 – 17:30 L.O. 17:00
定休日:金曜、第一木曜

敷地内禁煙

駐車場20台

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我が闘争に思う

Posted: 2024.11.13 Category: ブログ Comment: (0)

我が闘争に思うイメージ1

店主です。

先日自分が古くから文学作品を読むときにいくらか参考にしてきた人が亡くなられて、その人に向けた追悼に触れる機会がありました。その人本人よりも、自分はどちらかといえば彼のふたつ世代がうえにあたる人たち、たとえば『意味という病』だとか、『表層批評宣言』だとかいう本の著者のほうにはっきりと影響を受けていた気がするのですが、まさかそのお二人よりもずいぶん若いと思っていたくだんの人物の追悼文を、さきに目にするとは思ってもみませんでした。このことは、自分にとっては驚きでした。うまくことばが見つからないような種類の驚きです。ちょうど二世代ほどずれているこの三人の関係性もとても興味深いものだったのですが、わたしが触れた追悼のことばを書いたのはその間の世代に位置するある文学評論家のもので、彼が問題の著述家の著書を徹頭徹尾「アジビラ」と評していたのも、自分には深く印象的でした。それに「アジビラ」ということばを聞いて、わたしは二つのことを思い出しました。ひとつは、亡くなった著述家の著作を「アジビラ」と評したその文学評論家に向けて、自分はおそろしく若い頃に、(本人の承諾を得た上で)、ある文学作品の論評を(当時彼のいた大学の研究室宛に)送った記憶があるということです。それに返事はありませんでした。

もうひとつ。自分はあるとき読んだ本のことを、読み終わりまでずっと「いつまでこのアジビラが続くのだろう」と感じていたことを思い出したのです。なんとなくそんなふう思ったことに該当しそうな本を片っ端から(というほどでもなかったかもしれないのだけれど)読んで、ついに思い出したぞ! と見つけたのが、第二次世界大戦下のドイツのある権力者が記した、『我が闘争』という本でした。その本は、いま読み返してみても、そのころと感想がほとんど変わらない感じにかえってうろたえてしまったのですが。。そんなおりわたしはいまの仕事についてから関わることになった「コーヒー」というなにかの、そしてそのことばの使われているゆいいつの箇所を、その本の中に偶然のように見つけて止まってしまいました。

『わが国の場合のように、もともとうぬぼれ屋の愛国団体員や俗物的なコーヒーハウスの政治屋のまったく実現見込みのない、純粋な空想的おしゃべりが問題でしかない時には、とくにそれに妥当する。なにしろ新しい艦隊や、わが植民地の回復等々を要求する叫び声が、現実には単に無思慮なおしゃべりであるに過ぎず、実際に実行できる考えなどかれらはただの一つももたないのであるが、このことは静かに考慮すればおそらく少しの異議も唱えられぬに違いないからである。しかしイギリスにおいて、この半ばは無邪気な、半ばは正気でない、だがつねにわれらの不俱戴天の敵に内々では奉仕している抗議戦士達のまったくとんまな真情吐露が政治的にどれほど利用し尽されているだろうか、このことはドイツに有益だと呼ぶわけにはゆかない。かれらはこのように神と全世界に対する有害なデモめいたものによって疲れはて、すべて効果を収めるための前提である次のような第一原則を忘れている』(『わが闘争』アドルフ・ヒトラー)

自分は当時いくらか微妙な気持ちで目にしていたはずのその本の中で、彼がまさか「コーヒー」ということばを使って何か話しているとはゆめにも思いませんでした。この文章の微妙さはいうにおよばずですが、奪われたイギリス領アフリカ(イギリスの委任統治領としてのタンザニア)について触れていく彼が、その皮切りとなる文章で、「コーヒーハウスの政治屋」という文言をわざわざ使った点は、とくに微妙です。

『敵は予想すべきことであったことをただ行なっているに過ぎない。かれらの態度と行為から、われわれは学んでもよさそうなものである。しかし、このような見解の卓抜さを認めることをあくまで拒否しようとするものは、そうなれば将来永遠にあらゆる同盟政策が除去されるのだから、したがってまったく断念することしか道は残っていないことを、最終的になお熟考してもよいだろう。というのは、イギリスはわれわれから植民地を奪ったのだから、われわれはイギリスとは同盟できない』(ヒトラー)

戦後のドイツコーヒーの歴史から見ても微妙ですが、わたしが考えたことはもう少し別の事柄でした。アドルフ・ヒトラーは、(ことによれば)、フランス革命のやり直しを、たった一人でやろうとしたのではないでしょうか? しかも、20世紀の真ん中に向かっているなどという、ありえない地点の場所で。。自分はそんなことを考えてしまいました。この本の中で彼の言おうとしていることはすべて「アジビラ」だとしても、「博愛」ということばの正反対の概念をすべての行動と言動であらわしていた彼が、「コーヒー」ということばをフランス革命の端緒に向けた皮肉として使った事実は、見逃せないものです。

そんなわけで読みたい本やら何やらは大量にあふれ、山積みになり、そんなの自分でやったら、と言われてしまう内容にも毎年のようにこのくらいの時期からコーヒー豆の受注がとても多く捌けるものも捌けないので、相変わらず焙煎機に「ぶうん」という音で、静かに火を入れる日々です。

こっそり帰ってきた、小森の部屋

Posted: 2024.10.28 Category: ブログ Comment: (0)

こっそり帰ってきた、小森の部屋イメージ1

こっそり帰ってきた、小森の部屋イメージ2

【イベント開催のご案内】

「こっそり帰ってきた、小森の部屋」

「小森の部屋」。。かつてカフェ・アダチで開催された「小森の、小森による、小森と話したい人のための部屋」。実際は当時のスタッフの社長イジリからはじまった企画に訪問者多数。好きに火を吹いて行かれたため、草ひとつ生えない焼け野原と化した部屋。

あれから時は流れ。。

「個人事業をはじめたい方」
「もしくは、はじめた方で人に聞いてほしい話をお持ちの方」
に限定し、「小森の仕事部屋」(こもりのしごとべや)にリニューアルしてすっかり気を抜いていたところ、

・それでもコーヒー論争を片手に、形容し難いご様子で挑んでみえる方

・人生相談で、ボロボロに泣き崩れる方

などの不意打に遭ったため、このさい覚悟を決めて、ガス抜き成敗をする運びと相成りました。

とはいえ再開は、「こっそりと」。

まずは、「喫茶星時」さんにてお待ちしています。

【開催場所】
喫茶星時
岐阜市神田町3-3 加藤石原ビル2F
※カフェ・アダチではないため、ご注意下さい。

【開催日時】
11/25(月)13:00-16:00
(お一人様30分程度)

「喫茶星時さん店内のどこか」にいる、小森の捕獲をお願いします。

※予約は受付しておりません。

【参加費】
これといって無価値な小森と話すのは「無料」ですが、星時さんにワンドリンクだけオーダーをお願いします。

【部屋にいる人】
小森敦也(カフェ・アダチ/カフェふくろう代表)

【こんな人に来てもらいたい】    
どなたでも結構です。

①人生相談などなんでも。小森と話したい方、ご訪問ください。

②べつだん小森でなくてもいいけれど、誰にも聞いてもらえない「魂の叫び」をお持ちの方。
歓迎します。

③コーヒーについて、「いかにもややこしい、用意周到かつ紛らわしい話」をされたい方。
大歓迎です。

一生懸命耳を傾けますので、どうぞ好きなことをお話しください。

【ご注意事項】
・小森は本を読んだりしている時がありますが、気にせずご来店ください。

・万全の注意を払っていますが、もし寝ていたらそっと起こしてください。

・予約は受付しておりません。先着者がみえた場合には、星時さんでドリンクを飲んでお待ちください。

・真剣な話は、真剣に聞きます。

・ふざけた話も、真剣に聞きます。

皆様の訪問をお待ちしております。

具体的な物語

Posted: 2024.10.15 Category: ブログ Comment: (0)

具体的な物語イメージ1

店主です。

この季節になると、仕事の必要性に駆られて、「コーヒーの歴史」について、(どちらかといえばそれは「コーヒーの歴史」ではなくて、「コーヒー」と「歴史」、かもしれないけれども)、いくらかの本の読み直しをしています。そうはいっても結局そんなことはいつもしていることなのだし、あるいはいつもしていると意識すらしていないことなので、平常時よりもほんの少しだけ意識的にそうしているだとか、それくらいのことかもしれないのですが。。そんなわけで、「アナール学派」(そういうことばの使い方に対してきわめて批評性があったのに、ポスト構造主義とかいうのと同じようにまったく真逆のことばの使われ方でレッテルを貼られてしまっているひとたち)のいくらかの本を読んでいたのですが。。その中に、いつもよりいくらか意識する文章を見つけていました。

「マルクスは資本論のなかで「資本主義」ということばを一度も使ったことはないし、なんなら生涯をかけてそんなことばをくちにしたことはない」。1967年にフェルナン・ブローデルがそのようにくちにしたとき、このことばの意味は、世の中にまったく理解されませんでした。本当に、まったく理解されませんでした。。せいぜい「歴史的な事実」として、「本当かな?」などいうふうにページをめくってそれを確かめる緻密なひとがいただとか、そんな程度の作業しかありませんでした。「資本論の著者」といえば「資本主義の教義を明らかにした」などというふうに、現在ほとんどのひとが簡単にくちにするのでしょうが、繰り返しますがマルクスは資本主義などということばをくちにしたことはないのです。『資本論』(1867年)から、ブローデルがこのことを指摘する1967年まで(この年には、『グラマトロジーについて』も出版されている。。)のちょうどぴったり100年ものあいだ、何の批評性もないまま、「資本論とは、資本主義の教義について書かれており。。」だとかいう言説が、なにかの見本のようにいわれていたのです。このことの意味が分かるでしょうか。繰り返しますが、マルクスは資本主義などということばをくちにしたことはないのです。ページをめくってそれを確かめるとかいう作業ではないところで。。このことばの意味がわかるひとはいるのでしょうか?

『年号や人名の暗記など、私は重視しない。私は物語が好きだ。具体的な物語で、よく書きこまれているのがいい』(ブローデル)

たとえば、ジャン=リュック・ゴダールというひとはわかっていました。実際に『映画史』以降のゴダールは、(歴史というものに関して)ずっとヘーゲルからブローデルのよみかえをやっているように見えるのです。引用の多さだけではなくて、わたしにはそのように見えるのです。それは「ことば」があらわれてしまうことで、それ以前の状態には戻れない感覚のこと。。あるいは、対象ははっきりとするのに、かえってそのことそのものを根底から疑えなくしてしまうなにかのことです。なんとか主義だとかかんとか主義だとかの構図づくりしかできないひとたちは、このことの意味をもう少し真剣に考えてみたほうが良いのかもしれません。。ちなみに「ことば」を「人間の生」とよみかえると、このことは死生観までふくめて、後期のゴダールの作品に貫かれているなにかにつながります。

『時間だけが拒絶されながら死の門前に立つ。ちょうどその時、尽きることのない良心が、容赦なく私を非難する。良心は嘘をつき、時間は運命を断罪する。弱々しい悔恨が、私の目を曇らせる。だが活気により私は憩いを見出し、荒れ狂う海を逃れ、静穏な永遠にあらゆる憂悶をつなぐ』(エミリー・ブロンテ)

コーヒーのことでいえば、わたしは(以前も書きましたが)スペシャルティなんとかだというなにかに(この季節に決まって)某かのひとびとに絡まれることになるのですが。。結局それに対する優れた批判さえ、ほとんどどうでも良いことに思えます。なぜなら、スペシャルティなんとかに対するもっともよく出来た批判は、(ことばにおいて)「素材の趣味性や、洗練度に依存している」(デリダ)という点で、批判の対象とまったく同じ構造に陥っているからです。

『いかに偉大な誠実さでも、時の歩みには無力だ。何一つ、誰一人、甦らせられない。それでも、誠実さしか解決はない』(ゴダール)
 
自分は「物語」が好きです。こういう「物語」が好きです。よく書き込まれているかどうかまで判別の広がる気持ちはありませんが。。素材集めの趣味性や洗練度も良いのですが、どちらかといえばぶつぶついいながら考えたり、つくったりする方が好きなのです。

抽出イベント

Posted: 2024.10.12 Category: ブログ Comment: (0)

10月10日(木)に美濃加茂市にあるSANWA KAIHATSUさんのイベントスペースをお借りして抽出イベントを行いました☕️

参加者さんの中には普段からコーヒーを淹れている方もいれば、たまにコーヒーを淹れる方など…様々でしたがハンドドリップ式の淹れ方で同じコーヒー豆の種類でも淹れ方によって味が変わること、淹れている時の注意点などに気をつけてコーヒーを淹れていました!
そしてコーヒーを淹れ終わる度にそれぞれのコーヒーを飲み比べて感想や意見交流、質疑応答をしながら楽しく学びました!

抽出レクチャーや抽出イベントは出張での開催も可能です!
美味しいコーヒーを淹れるコツなど一緒に学びませんか?
ご連絡やお問い合わせはカフェ・アダチの公式LINE、InstagramのDMまたはお電話(0575-23-0539)にて承ります(*^^*)

遭遇する出来事の焼成

Posted: 2024.10.06 Category: ブログ Comment: (0)

遭遇する出来事の焼成イメージ1

店主です。

毎年この時期になると、ひょんなひとたちから決まって「アジア最大級の国際見本市には行かれますか?」だとか、「国際展示場駅で会えませんか?」とかいうことばを一定数投げられることになります。そしてそのたびに、自分はなにかの感想を持たないではない(もしかしたら本当に何の感想も持ち合わせていないのかもしれない)そのしゅの出来事(との距離感)にめまいがしながらも、いちおうそれなりに気の利いたことをいおうとして----大抵の場合徒労とは釣り合いもなく滑って終わる----、というのを、ここ何年か繰り返していることに気がつきます。このあたりのめまいがしそうな出来事(に向けた距離感)のことを思うとき。。(それが自分自身のものなのか、そうじゃないのか、傾向としてこういうものごとのそばにあるものなのか、そのことはよくわからないとしても)、自分はある「途方もなさ」についてのことだったり、あるいは、ある「誠実さ」だとか、「ちからのなさ」について考えるよりほかないのですが。。この「ちからのなさ」というのがまた、このごろあった「もっとも特筆すべき出来事」の総体的な印象でもあったので、(想像もしていなかったことと、想像していたことの感想が完全に重なってしまったことにたいする、いいようのない違和感もあったと思うのですが)、手元にある飲みかけの「コモデティコーヒー」の味も、いくらかせつないものに感じてしまいます。

『パンは小麦粉から作られます。オーブンに入れたときに、小麦粉がどのようにパンになるのかが、ブッダにとってはもっとも大事なことでした。私たちは、どのように悟りをひらくのか? ここがブッダの、最大の関心でした。悟りをひらいた人、というのは、ブッダにとっても、またほかの人にとっても、完全で、望ましい人でした。人間は、どのように理想的な人格を発達させることができるのでしょうか? どのようにして過去の聖者たちは、聖者になったのでしょうか。パンの生地が、どのように完全なパンになるのか見つけるために、ブッダは自分で、何度も何度もパンを作ってみたのです』(『禅マインド ビギナーズ・マインド』)

自分はある哲学者がくちにした、「人類に共通する最大の弱さは、意味もなくなにか求めてしまうことだ」、ということばを思い出しながら、そのころちょうど気にしている人がどこかに現れたり、どこかからいなくなったりするといった、いくつかの場面を目にして過ごしていたわけです。人に共通する最大の弱さは、意味もなくなにか求めてしまうこと。。上の引用でいわれる「パン」というのは、もちろんいわゆる「パン」のことではありません。それはつまり、「比喩としてのパン」なのですが。。しかし、パンそのもののたとえよりも、わたしはかつて「パン焼き器」だとか、「オーブン」だとかいう比喩で、自分に向かってなにかをくちにしたひとのことばのこと、わすれがたいあることばのことを思い出します。

『いずれにしろ、私たちは、じっとしていることはできません。。なにかをしなければならない。そのとき、(大切なことは)、自分を観察し、注意し、そしていま、ここの、自分に気づいていることです。私たちの方法は、パンの生地をオーブンに入れ、そして、注意して見守ることなのです。どのようにパンの生地がパンになるのかわかれば、悟りを理解できるようになるでしょう』

自分がパンそのものであるひともいれば、パンを焼くために生きているようなひともいる。そもそも、パンを焼くには、焼くためのものが必要です。「高級パン焼き器が、ルンバになろうとしてもなれない」。それがわたしが聞いた、忘れがたい比喩の話です。ひとの性質のことでいえば。。たしかに、パン焼き器ではなくて、ルンバのようなひともいます。あちこち動き回って、何かを吸い込むのを使命としているようなひとたちのことです。わたしもかつて、自分のことをルンバかなにかだと思っていたのですが。。それがそうでもなかったと気づいたとき、かたわらにはコーヒーがありました。

さきの哲学者や、上の高僧のつぶやきのように、ひとは自分のことをこねくりまして、永久に焼けないパンのまま、パン生地のままでいようとしているところは、確かにあるわけです。しかし、人生はただなにかをこねくりまわしていれば、あるいはただなにかを寝かせていればいいというわけでもありません。そして人生が面白いのは、そういうタイプの人が、高級パン焼き器に出会った瞬間あっという間に焼成して素晴らしいパンになってしまうことがあるところです。

自分はこの数週間のうちに、(比喩ではなく)死にかけたり、もう二度と会うことはないだろうなと思っていたひとと遭遇したり、おんなじことが起こってうんざりするだろうなと、起こる前からあるものごとに対してうんざりしながら、高級パン焼き器の誰かが、特性からはずれて自走するルンバになっているさまを見ていました。それはもしもう一度そのひとに会う機会があれば、自分はこう思うけどと伝えてみようと思った事柄でした。

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連載「コーヒーのある時間」

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