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声と現象のあいだ

Posted: 2025.12.13 Category: ブログ

何度も何度も似たことを書くはめになっているようにも思えるけるど、そんなことはいい加減にしておいたほうが良いに決まっているのに、どうしても「師」が「走」り回るほど忙しいということばでいわれるくらいの季節的な時間の流れのなかで、「師」的な役割であちこち呼ばれて文字通り「走」りまわって、自分が職業的に関わっているまるで理解し難い飲み物について何か話したり、話されるのを聞いたりして時間を過ごすことが起こるわけです。いったいなぜそんなことをしているのでしょうか? もちろん、そんなことはいい加減にしておいた方が良いに決まっているのです。たとえば、「カフェ」などについて話しているときは、私はある程度までいい加減にしておいたほうが良いのにという気持ちにはなりません。しかし、職業的に関わる何かの種類の飲み物は、こういうわけにはいきません。あるかたちで、なにかの場所が設けられた状況で、私はそこで往来の「声」や「現象」について、まばたきもぜずまるで子供のように眺めるほかありません。

たとえば、「知識がある」とか「理解している」とかいうのは、何か構図的なものごとの組み替えに長けている、だとかそういうことなのでしょうか? 思い浮かぶのはレファレンス référence という「語」(「概念」、といってもいいのですが、概念も「語」なので結局どちらでも良い)ですが、いくつかの声や現象のなかにあって、私は10代のころからずっと繰り返して読んでいるので、もはや四半世紀くらいは読み続けていることに驚いた『声と現象』というとある理解不能だと言われることもあるアルジェリア生まれのユダヤ人の書いた書物のことを考えてみるわけです。つまり、その作家はあるレファレンス(指示=対象)のことを、「まばたき」という比喩で言おうとするのですが。。しかし、それは結局いうことができません。まばたきは、前後をわけるけれど、まばたきそのものは不可分だという意味です。

「いうことのいわなさ」という比喩は、この作者の思想の中でも最も繊細な場所にあるものです。まばたきは その行為の“前” と “後” を生むものですが、まばたきそのものは分割不可能で、「指示=対象」だとかいうことばと同じように、時間的にも概念的にも切り取ることはできません。私が思い出している本の作者は、この「切り取れない瞬間」を、差延だとか、痕跡だとか、非同一性だとかいうことばなどを疑いながら使用して扱っていました。それはつまり、構造化できない“生成の部位”に対する有限責任のことなのです。言語学は、前(before)や後(after)といった構図によって時間を分節化しますが、実際には、その境界をもたらす瞬間は、「前後」のそのどちらにも属さないのです。この意味がわかるでしょうか。つまり、まばたきは切断そのものなのに、切断点として捉えられないのです。これは、ものすごいことではないでしょうか。この“位置づけ不能な瞬間”こそ、デリダが言いたかった対象以前の運動(差延そのもの)なのです。

眼前で変わらず繰り返される「ある」だとか、「ない」だとか、「いま」だとか「むかし」だとか、聞いていて片手で目を覆うしかない声と現象を前に、そうやってすべてが成立する前の、発生しつつあるがまだ姿を取らない領域について、私はそのまま口元を歪める気持ちをして考えています。そんなことを考えているのは、自分限りなのでしょうか。しかし本当は黙っているだけでなく、それをうまくいいたいのですが、こういうものがうまくいえないこともわかります。まばたきを語った瞬間に失われるものは、それは自分がほとんどどうかしているともいえるかたちで読み続けているその本のなかで繰り返しになる、「言ってしまえば壊れる構図」と強く呼応しているからです。指示対象ということばが指示対象そのものなので、われわれは本来まばたきについて語る前に、陥っている態度があるのです。瞬間は言語がつくる分節の“発生源”としての瞬間であり、言語では決して把握できない瞬間でもあるわけで、つまりそう言わざるをえないにも関わらず、名付けた瞬間にもう、まばたきの“無媒介性”はすでに失われるのです。

先ほどカフェについて話すことにたいして、私はあまりいい加減にしておいたほうか良いとは思わないと書いたけれど、そこにはおそらく「媒介的」だとか、そういう言い方でいえるなにかがあるからです。ふかめのため息をついて取っ手に手をかけて飲む私が職業的にのみ関わっている苦い飲み物は、こう言ってよければ、媒介するものが一切ありません。輪郭ということばすら、あたりません。つまり、それは無媒介ということばでしか捉えられないほど、(それはつまりそういうことばですら捉えられないということでもあるけれども)、圧倒的ななにかであるというわけです。そう思ってくちにし、味ではないものに、私は「まばたき」します。そして、いつのまにかあらわれた「いつかまた、コーヒーについてふかい話をしよう」などという合意形成を前に、まったく目を丸くするするよりほかないわけです。

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